水源地で味わう内臓料理

長く暗い冬になる前に、色んな施設が無料となるニーダーエステライヒカード(Niederösterreich CARD)をどんどん使っておきたい、という事情から、シュタイヤーマルク州との境に近いウィーン市の水源地の一つ、ラックス(Rax)に出かけました。ウィーンから車で高速道路のA2、S6を経て、ロープウェイの乗り場のあるHirschwangまで1時間30分ほどでした。

麓駅に10:30頃に着くと駐車場はかなり満杯で、出札口に続く行列ができていました。立派な駅舎だなあ、と思ってみていたら、どうもこれがオーストリアでは最も古いロープウェイらしい。思ったより早く出札口にたどり着きましたが、そこで33番という番号が与えられました。切符を買ってもすぐには乗れないわけです。

自分の便まで1時間以上も待つことになりましたが、子供の遊ぶ遊園地、お父さんがビールを飲むテーブルなどが用意されていて、それなりに退屈せずに過ごせるように整備されているのに感心しました。

標高528 mの麓駅からおよそ7分ほどで標高1546 mの山駅に到着しました。そこからは台地状の高原なので楽々ハイキング(散歩?)。信州松本の美ヶ原高原のような雰囲気です。当初は、山駅で眺めを楽しんでお昼を食べて降りようか、くらいの気持ちで居ましたが、Ottohausというヒュッテまで40分足らずで行ける、という表示があり、赤ん坊を背負ってそこまで頑張ることにしました。

Ottohausに到着。本日の特別メニューは「子牛のもつ(Kalbsbeuschel)のリースリングソース・ゼンメル団子添え」。迷わずこれです。この種の内臓料理は地球の歩き方にも紹介されていますが、なかなかウィーンのレストランではお目にかかれないのです。

子牛のもつ料理(右)と生ハム(Speck)団子スープ(左)。グラーツのPuntigamerのビールが出てくる辺り、シュタイヤーマルク州が近いことを感じさせます。子牛の肺や胃腸は処理が面倒らしく、それがウィーンのレストランでこの料理をなかなか見かけない理由のようです。どこかウィーンでもおいしいの食べられないでしょうか。(私が知らないだけ?)

Ottohausの辺りからはPayerbach-Reichenau方面の眺めが素晴らしい。ウィーンからグラーツに抜けるセメリング鉄道がライタ(Leitha)川を離れるべく渡る美しい陸橋がよく見えました。

車のない人はこのPayerbach-Reichenau駅からロープウェイ乗り場までの足が問題。但し連邦鉄道のEinfach-Raus ticket(大人5人まで特急以外乗り放題で一日32 EUR!)を買えば、電話予約することで無料の送迎サービスが付く、と連邦鉄道のウェブページには説明があります。この切符でまたRaxのロープウェイは20%引きになるようです。また6月~10月の日祝は保存鉄道Höllentalbahnでロープウェイ乗り場の1 km手前まで行くのも一興かと思われます(これもEinfach-Raus-ticketで往復9 EURが7 EURに割引)。

上の図はウィーン市水道局(Wiener Wasser MA35)の解説から拝借したウィーンに水を供給する2つの導水管の地図。ロープウェイ乗り場のHirschwangのある谷はこのうち古い導水管(約120 km、図の下側)の取水地に近く、どうりで川の水がものすごく綺麗だったわけです。一般に工事の遅いウィーンですが、この導水管は1870年からたったの3年で作られたというから驚きます。これら二本の導水管のおかげでウィーンは地下水を汲むこともなくおいしい水道水が飲めるわけです。ちなみに配水は自然傾斜のみで動力揚水がなく、逆に水力発電もしているというから驚きます。

帰路、ウィーン市内に戻ってからAlserbachstraßeとNußdorferstraßeの交差点のところでパトカーに止められました。ドイツ語で何か一言二言”Rot”とか”Kreuzung”とか○○EURとか言います。赤信号ではなかったが黄信号で入ったのがまずかったか。日本の運転免許証と滞在許可証を見せたらどこかで少し用事をしてから返してもらって解放となりました。日本なら違反したことを認める印鑑を押すとかあるのですが、こちらの署名など一切なし。どうなることか。

初めてのイタリア(後編:エリーチェとトラーパニ)

エリーチェでの朝食は事務棟のある元San Rocco修道院。スペインやポルトガルに似て普通のパンに加えて甘いお菓子のようなものが並んでいました。

朝食に並んだお菓子類のひとつ、ビスコッティーノ。これはコーヒーに浸して食べるものだそうです。イタリアはコーヒーもおいしいですね。

San Domenicoの裏側の通り(Via San Domenico 18)に工場を持つお菓子屋さん、Pasticceria San Carlo(店舗はVia G.F.Guarnotti 52)。工場の営業時間は9:00-13:00と15:30-21:00。

工場ですが、その入り口を入ったところがカウンターになっていて、ガラスケースの見本を見ながら一個単位で色々なお菓子を買うことができます。マジパンほか色々な出来立てのお菓子が格安で買え、会議場を警備するおまわりさんも通っていたというお勧めの店。値段は目方売りで1 kg 15 EURほどと格安。カウンターからお菓子の製作現場も見えましたが、手作りという感じでした。

こちらは役場のあるUmbertoiという広場に面したEdelweissというバー&レストランの一階のお菓子コーナー。小さな甘いお菓子が色々と並んでいます。

このレストランEdelweissで食べたこの地方のパスタ、ブジアーテ。棒などに巻きつけてつくるパスタで、ブジというのは昔に芯として使っていた植物の名前なのだそうです。会期中、名札を見せれば街の6つ位のレストランのどこででも昼食と夕食が飲み物代のみで食べられてしまう、というのが、このマヨラナセンターの面白いところです。いずれも定食で前菜(スープ等)・一膳目(パスタ等)・二膳目(肉魚)・デザートとなっています。食べ終わったら名前とサインをして、飲み物代のみ支払います。宿舎のアンケート用紙には1位~3位と最下位のレストランの名前を書く欄がありました。”Every year we will publish the priority list and a Prize to the first, second and third Restaurant. – Each participant has to use his right to express a vote”というわけで、集計結果をもとに毎年1位~3位のレストランを表彰するようです。

エリーチェから見下ろしたトラーパニの街並み。右手奥に伸びる岬の先端部が旧市街。岬の左側には塩田が広がります。エリーチェからはゴンドラ(Funivia)で麓駅まで降り、そこから21番か23番のバスでマルゲリータ公園の辺りまで出ることができます。日祝はバスの本数が極端に減るようなので要注意。

トラーパニの魚市場のある場所から海岸沿いに旧市街を岬に向かって歩きます。魚市場というのでお魚屋さんが近くに何軒かあることを期待したのですが、一軒も見当たらず。

うにのおいしさを知っているのは日本人とシチリア人だけ、という話があるそうで、トラーパニではうにのパスタを捜し求めて、めでたくメニューに発見。ただメニューにも”when permitted by the law”とあるように漁期にしか食べられないようで、今回は残念ながら食べられませんでした。

出されたお刺身とパスタ。魚のお刺身は淡白な味でしたが、甘い海老と魚卵をまぶしたようなパスタがおいしかったです。ちなみにトラーパニは5月下旬から7月上旬にかけてマグロが回遊するようで、(うにの時期が北海道と同じ位だと仮定して)6月とか7月に行けば、まぐろとうにが楽しめるのかも知れません。これだけ魚介類に恵まれているのに、いまヨーロッパのあちこちではやっている寿司の店が一軒も見当たらなかったのも面白かったです。

初めてのイタリア(前編:マヨラナ科学文化センター)

過去、ブレンナー峠から1 km弱侵入する以外に訪れる機会のなかったイタリアの地をついに踏むことができました。シシリア島西端のトラーパニ(Trapani)近くにある標高750 mのエリーチェ(Erice)という街であった2日間の小さなワークショップへの参加です。これまた初めて搭乗したアリタリア航空はベビーカーを乗り継ぎのローマでパレルモ行きに乗せそびれ、いきなり悪い印象を持ってしまいました。ベビーカーが届くのは我々がウィーンに戻る日というふざけた連絡をアリタリア航空から受けたホストが、ベビーカーの引き取りのために、わざわざ空港(片道90 km)まで車を出してくれました。

今回ワークショップのホストとなったのは。エットーレ・マヨラナ科学文化センター(«Ettore Majorana» Foundation and Centre for Scientific Culture)。マヨラナは幾つも有名な仕事をした物理学者ですが、彼が32歳でナポリからパレルモに向かう途中行方不明になったという話は知りませんでした。センターの事務棟のある建物は、核磁気モーメントの測定法でノーベル賞をもらった研究者ラビの名をとってI.I.Rabi Instituteと名づけられています。もともとはSan Roccoという修道院だったとの由。

我々にあてがわれた宿舎はSan Domenicoという元修道院。ここは霧箱による宇宙線観測や陽電子の研究でノーベル賞をもらったブラケットの名を取ってP.M.S.Blackett Instituteと名付けられています。右側の大きな玄関が会議場への入口、左側の狭い通りに面した小さな玄関が宿舎への入口でした。欧州委員会(EC)とイスラエルの研究協力を話し合う会議だったからか、会期中常にパトカーが広場に止まっていました。

玄関を入ると石造りの床と壁に囲まれた長い廊下が続きます。音響がいいのでここを通るたび、ついつい「グローリ~ア~、インエクセルシスデ~オ~」などと口ずさんでは音響を楽しんでしまいました。

外観からは想像できないほど部屋はよく整えられており、極めて快適に3泊することができました。財団への寄付金という形で1泊100 EUR。ここに宿泊したのは我々のほかにはECのKarlsruheとGeelの研究所からの家族連れ二組とKarlsruheの秘書さん。水道水は飲めるが飲まないほうが良いらしく、冷蔵庫には大量のミネラルウォーターが入っていました。

これがSan Domenicoの会議室。この元修道院の中にこんな会議室があるとは、外観からはとても想像できなせん。演壇のところには懐かしいディラック方程式(+m)φ=0が書かれています。ディラックの直筆か?ちなみにディラックはこの財団の主催者のズィキキ(Zichichi)やカピッツァとともにエリーチェ宣言(Erice Statement)を1982年8月に作成したらしいです。この財団の主な活動は物理を始めとする諸分野の国際スクールを開催することで、調理法の科学「分子ガストロノミー」なんてのもズィキキ氏の肝いりで何度か取り上げられたようです。

コーヒーブレークに使われたSan Domenicoの3階からのこの素晴らしい眺めには絶句。左側の人の左側に見えるのがEriceの絵葉書などにもよく映しこまれている標高600 mほどの山。Google mapで調べましたが山の名前は分かりません。

小柴さんが1985年(ノーベル賞受賞の17年前)にズィキキの依頼で書いた直筆の短文が、この地中海を見下ろす部屋に掲げられていました(なぜか最後の署名だけ字が逆立ちしている):

「ここはイタリー中部の山間の町ラキラです。物理学の会議に出席してゐると議長のズィキキ教授から「平和」について短い文章をまとめて欲しいと依頼されました。私は文章を作るのが不得手なので大変困りましたが、つたない乍らも努めてみます。

前大戦が終わったのは私が19才の時で旧制の高等学校の一年でしたが戦争の悲惨さは身にしみて居ります。私が浮世離れした基礎物理の研究に身を投ずる事に決心したのも私の戦争体験と無縁だったとは思いません。私の子供達は20才をとうに過ぎてゐますが、「平和」の中に育ってどのくらい「平和」が有り難い事なのかを充分に感じてゐるとは思いません。恐らく空気と同じ様にそれがなくなって始めて、失ったものに□れと涙を流すのでしょう。物理学者の一人として今戦争が始まったら前大戦とは比べものにならない地獄が出現する事は他の職業の人々よりはっきりと予想出来ます。もう一度「平和」を改めて感じなほしましょう。
昭和60年4月30日小柴昌俊」

事務棟の入り口にはたくさんのスクールの案内が張り出されていました。今年1年だけで40ほどのスクールが開校されるようです。我々のワークショップの翌週が核物理のスクール(International School of Nuclear Physics)で、テーマは重イオン衝突による極限物質の探索。プログラムには懐かしい名前の数々。僕と同期で今もこの分野で活躍している人を講演者として発見したので、Ericeの様子をついメールしてしまいました。

カートレインで再び分水嶺越え(北部スロベニア旅行3)

3日目はソチャ(Soča)川を再び下り、昨日訪れたトルミン(Tolmin)を過ぎ、鉄道好きとしては見逃せないカートレイン(Avtovlak/Motorail)に乗車すべくモスト・ナ・ソチ(ソチ橋、Most na Soci)駅に到着しました。今回4日間の自動車の行程で、優れた景勝で名高いこのボヒニ鉄道の区間だけは列車に乗りたい、と願っていたわけですが、私が車を乗り捨てて列車に乗りたいと思った区間に限り、自動車ごと旅客を積載して走ってくれる列車があるというから驚きました。

Most na Soči駅に到着すると既に結構な数の車が積載を終えています。普通乗用車が15台ほど積める程度に貨車がつながれていて、それとは別に自転車や旅客を積む客車が一台。但し自動車で来た人たちは、自動車ごと貨車に乗り込みそのままの移動となります。予め予約を取ることはできず、当日早い者勝ちです。

ホームに車を乗り入れ、車掌さんから切符を購入。車の運賃と車に乗車している全ての人の運賃を合わせて13 EURほどと驚きの安さ。駅のホームから車で列車に乗り込むというのが初めてのことで、ここにかなり時間をかけてしまいました。貨車の上でバックするのに手間取っていると、近くにいたイタリア人に「マエストロ、サイドミラーをみながらバックすると良いよ」と言われる始末。

Most na Soči駅を出た列車は途中ポドゥブルド(Podbrdo)という駅にだけ停車。この先で分水嶺を形成するコブラ(Kobla)という山を貫く全長6339 mのボヒニトンネルをくぐって終点のボヒニスカ・ビストリツァ(Bohinjska Bistrica)に到着します。地図によればこの分水嶺を車で通り抜けるには標高1300 mほどの峠道を越えなければならず、これが回避できるというのがこの自動車列車のポイントなのかも知れません。Podbrdoの駅には自動車を積載したい人たちが数組我々の列車を待っていましたが、あいにく自動車を積載するスペースが残されておらず、彼らは乗車できませんでした。(車掌さんですらホームでおしゃべりに夢中になり、発車に慌てて列車に走り込み辛うじて乗車できた始末)。

列車の終点のBohinjska Bistricaで下車してから15分ほど車を走らせるとボヒニ湖の東端のRibčev lazに到着。車をここに止めて、バスで湖の西端のUkancまで向かい、そこから湖の北側を2時間ほどかけて散歩するのがお勧めコースです。オーストリアの保養地の湖のように旅館などごとに区切られた湖岸はなく、だれでも好きな湖岸で遊べるのが魅力です。水が綺麗で、無数の魚が泳いでいるのがよく見えます。夏休み、ここに一週間くらいきてぼーっとしたいものです。

Bohinj湖を離れて最終宿泊地に向かう途中でBled湖に寄りました。ウィーンのCremeschnittenと同じじゃないのか、という論争の末、1つ注文して同行者5人で取り分けたのが当地の名物Blejska Kremna Rezina。最初にスロベニアで泊まったのがここBledですが、どうもここはやや安っぽい保養地のように思われ、立ち寄るのは悪くないのですがまた泊まりたいという気持ちはどうにも起こらないのです。

さて、そのBledに替わって今回のスロベニア旅行で最終宿泊地となったのが Bledから車で20分足らず(鉄道ならLesce Bledから一駅)のところにあるラドヴリツァ(Radovljica)という街。ここは鉄道駅から近いところに雰囲気の良い旧市街があり、宿泊にも道中の立ち寄りにもお勧めしたいところです。

Radovljicaで宿泊したのはLectarというレストラン付宿屋。EUやスロベニアの補助金を得て建物を修復したというような看板がありました。古い建物ですが、客室の水回りなどは大変によく整備されていて感心しました。対応も大変に印象が良く、また食事も色々と面白いものが食べられ、ここはヨーロッパでこれまでに泊まった宿の中でも最も良い印象を持った宿屋の一つとなりそうです。

最終日はJesenice~Villach間の高速道路のトンネルを使って真っ直ぐVillachに戻ることができれば、と思っていましたが、我々はあいにくスロベニアの高速道路の通行券を持ち合わせていません。高速道路を通らないとなると、Kranjska Goraを通り、往路と同じWurzenpassで国境を越えて行くのがVillachに戻る最短コースだというので、行きに通ったのと同じ誰も居ない国境検問所のゲートをくぐりオーストリアに戻りました。

ソチャ谷(北部スロベニア旅行2)

Bovecでの二日目は素晴らしい快晴。午前中はゴンドラでKaninという山にでかけました。

Bovecの中心部からすぐの麓駅(標高 436 m)と頂上駅(標高 2202 m)の往復で運賃15 EUR弱という安さ。オーストリアだったら間違いなく倍はするでしょう。この6 kmほどのゴンドラは1974年に開通したもので、途中駅が2つありました。頂上駅付近はスロベニアで最も標高の高いスキー場となっており、スキーの時期にはこのゴンドラもフル稼働なのでしょう。夏はそこまでの乗客はいないらしく、毎時正時から5分だけ乗車可能という設定でした。

頂上駅からゲレンデらしきところをしばらく歩いて登ると尾根筋(Prestreljenik峠?)に着き、反対側へ下るリフトが現れました。2005年秋に完成したこのリフトの終点(写真でも見えています)がイタリアとの国境となっており、そこからイタリア側のSella Neveaという村に降りることができるようです。

ゴンドラで山麓に戻り、ソチャ(Soča)川沿いの道路を下り、コバリド(Kobarid)にて昼食。ニジマスが1 kgで20 EURほど。目方で値段を書かれる注文するのを敬遠してしまうのですが、写真のような典型的な大きさのもので500 g前後と思っておけば良いようです。ヘミングウェイの「武器よさらば」は、このKobaridでの第一次世界大戦でのイタリアとオーストリアの激戦を舞台としたものらしいのですが、私はまだ残念ながらこの話を読んだことがありません。

午後は更にSoča川沿いに下ったトルミン(Tolmin)という街の奥にあるTolmin渓谷(Tolminska Korita)に出かけました。車でTolminの街からかなり幅の狭い道を経て駐車場に到着。ここのゲートで入場料を払って歩き出します。

サンダル履きで来ている若い女性が居るのには驚きましたが、老若男女だれでもこういう渓谷歩きが楽しめるのは素晴らしいことです。私の記憶が正しければ、Bled湖の近くにも観光地として知られる似たような渓谷があったはず。深い渓谷となっている部分はそんなに長くないようで、解説板には本流のTolminka渓谷が200 m、途中から分かれるZadlaščica渓谷が100 m、とありました。

Hudičev most (悪魔の橋)と呼ばれる橋から見下ろした渓谷。この橋は、現地の人とボヒン鉄道の作業員が木造で架橋したものが一代目で、それを後にイタリアが占領時に鉄橋に掛け替えられたとの由。石灰岩質のところはこういう深く掘り下げられた渓谷(峡谷?)が発達しやすいのでしょうか。

渓谷歩きの後は、行きには通らなかったSoča川の左岸側の道を通り、Kobaridへもどりました。Kobaridの街に入る手前でSoča川を渡ったのがナポレオン橋。みな立ち止まって下を見下ろしているのが気になりつつも、有名な橋とも知らず車で素通りしてしまい、そのまままっすぐBovecへ戻り2泊目。
追記:WikipediaではKobaridは「コバーリド」、Tolminは「トールミン」などとなっており、他にも長音が入る地名が沢山あるようですが、正しい発音がよく分からないので、とりあえず長音記号抜きで記しました。

分水嶺を越えて(北部スロベニア旅行1)

「アルプスの陽の当たる側」とも呼ばれるスロベニア。ここを最初に訪れたのは10年前。元旦にブレーメンでユーロ通貨の導入を体験、その日の夜行でミュンヘンに朝着、そこから列車でザルツブルクを経てスロベニアに入りブレッド(Bled)に着きました。2年前にリエカ(Rijeka)からウィーンへの帰途、リュブリヤーナをを歩き、ボヒニ(Bohinj)湖で一泊したのが2度目。そして今回が3度目のスロベニア入りです。

今回は列車でウィーンからフィラッハ(Villach)まで入り、そこからレンタカーを借りて、スロベニアのボベツ(Bovec)で2泊、ラドヴリツァ(Radovljica)で1泊し、そこからフィラッハに戻り、列車でウィーンに戻る3泊4日のスロベニア北部に特化した旅行となりました。

南駅が取り壊され中央駅も工事中ということで東チロルのリエンツ行Sonnenstadt Lienz号はWien Meidlingが実質的な始発駅。ここから4時間ほどかけてスロベニアやイタリアとの国境にほど近いVillachに昼過ぎに到着します。オーストリア国鉄の(特に国内線から)食堂車がそのうちなくなるのではと勝手に心配して、食堂車で朝からビールを飲み昼食もそこで済ませた次第。

Villach営業所とは名ばかりで駅からひどく離れたところにあるSixtで車を借り、Wurzenpassという標高1073 mの国境を越えます。スロベニアがシェンゲン圏に入った2007年12月21日以降パスコントロールはない(Keine kontrolle)ということを知らせる張り紙がしてありました。オーストリアの国道が終わりスロベニアの国道201号線の起点となる場所には、第一次世界大戦に敗れたオーストリアが結んだ、サン=ジェルマン条約にちなんで “St.Germain 10 Sept 19” と刻まれた白い石碑がありました。オーストリア人はこれを見てかつてのハプスブルク全盛時代に思いをはせるのかどうか。

峠を下りるとポドゥコレン(Podkoren、ドイツ語名Wurzen)という小さな村。村祭りで通行止めの旧道を迂回して、ゼレンチ(Zelenci)の泉という名所にやってきました。ここを源流の一つとするのがベオグラードでドナウ川に合流するサヴァ(Sava)川という大河で、この名を冠した特急Sava号(EC211)は我々がVillachに到着した時に見てきたのでした。10年前の初スロベニア旅行時の記録を調べると、私はミュンヘンからBledまでを直通するHugo von Hofmannsthalという特急(EC191/IC291)を使ったようです。この直通特急がもはや存在しないとなると寂しいことですが、ともあれVillachからBeograd行きにSava号とはベストの愛称だと思います。

ここから分水嶺を越えてソチャ(Soča)川の側に出るのに1611 mのブルシッチ(Vršič)峠を越えるか、あるいは一旦イタリアに入りPredilという湖の辺りから1000 m強の比較的低い峠を越えるか、これが準備段階での悩みどころでした。昨年Bovecの国際会議に車で出かけた上司はこの1000 m強の峠越えですら奥さんが怖がったと言いますし。

お天気も良く時間もまだ早いということで、日光のいろは坂にたとえる人もいるらしいVršič峠越えを選びました。第一次世界大戦で捕虜になったロシア人に開削させた、Sava川とSoča川を隔てる分水嶺を越える峠道です。峠への登り坂の眺めの良い場所からは、Prisankという2547 mの山が見えました。最高峰のトリグラフ(Trigrav)が2864 mなので、このPrisankもスロベニアでは高い山なのでしょう。拡大しないと分かりませんが自転車に乗っている人の頭の真上くらいのところで、山に穴があいてました。Prednje okno(幅40 m、高さ80 m)と呼ばれるもののようです。

この峠越えは思ったほどの難路にな事にBovecに到着して夕飯。スロベニア領内に入るとメニューに目立つのがイカです。Zelenciの泉の入り口の食堂で食べた炭火焼きも旨かったし、Bovecで食べたフリッタもおいしかったです。スロベニアは白ワインも安くて旨く、食堂で飲んでも1リットル10 EURほどと、ウィーンのホイリゲなみです。

市民プール

現在の場所に引っ越した理由の一つは近所に立派な市民プール(Döblinger Bad)があることでした。なかなかに人気があるようで、暑い週末には自宅前に駐車するのが難しくなります。プールに近くて便利だと引っ越したはずなのになかなか行けないプール。7月の暑い週末にようやく腰をあげてでかけてみました。ここは冬は屋内プールのみ、夏は屋内と屋外の両方のプールが開放されます。写真からは分かりにくいのですが、ドナウ川周りのウィーン市街を見渡すことができる、眺望にも優れたプールです。

この時期、市民プールに泳ぎ目当てで来る人は多分半分くらいで、もう半分くらいの人たちは単に寝ころびに来ているだけです。海のないオーストリアならではでしょうか。プールサイドというには広すぎる緑地帯が確保されています。一回5.0EUR(13時以降入場は3.9 EUR)。

この辺りまでやってくるとプールなのかセミヌーディスト公園(?)なのか良く分からなくなります。飲食している人もいれば編み物している人もいます。ただアルコール禁止なのか酒類を飲んでいる人は見あたりませんでした。ウィーン市のプール案内にあるプールの数を数えてみたら全部で49もありました。全部が市営ではないようで、Bundesbad (連邦プール?)、Polizeibad(警察プール)など公設・私設のものまあ色々と混じっているようです。

Badはプールを指すこともあれば温泉・冷泉を差すこともあるようです。Bad Ischlなどはクアハウスのある温泉保養地として有名ですが、近所のHeligenstadt公園のGrinzinger Strasse側にも、かつてHeiligenstädter Badなる硫黄泉があったようです。かのベートーベンも医者に勧められてこの泉の近くに移り住み、しかし病気は回復せず、かくして近所で有名な遺書を書いたということになったようです。確かに「遺書の家」もすぐ近くです。ちなみにここの温泉の持主の名前が、我が家の前の通りの名前となっています。温泉があった場所は現在はHajsanというワイナリーのレストランになっています。